日本企業の9 割を占めている小企業400 万社。
彼らの声が、マスコミの記事に取り上げられることはない。
しかし、日本の基盤を支える小企業経済の実態を知らずして、本物の景況感は語れまい。
小企業が直面している日本経済のいまを語る。
文=FJ編集部

金貸しの歴史は、おカネの発生とともに古い。日本史を紐解けば、古代における金銭貸借の年利は50~100%であったと推定されている。室町・戦国時代においても60~100%だったようだ。「利息は元本の倍まで」という律令時代の「利倍法」が一般常識になっていて、江戸時代の「一本一利の法」に引き継がれ、年利の上限は100%という相場観が形成された。それ以上の金利だと『高利貸し』という評価になっていたらしい。
ただ、担保があれば金利が低くなるというのは、今も昔も同じ。動産を担保におカネを貸す、いわゆる質屋に関していうと、1692年に20~36%の金利であったことを示す史料がある(『徳川禁令考』)。
もっとも、その10年後には金利の上限が50%にまで引き上げられ、明治維新に至るまで実務上の基準として扱われたというから、担保付き貸し出しの場合は、20~50%という金利水準が実勢だったようだ。
その一方、「素金」と呼ばれた担保をとらない貸し出しについては、かなり金利が高かった。
例えば、明けガラスの「カァ」で借り、暮れの「カァ」で返す「烏金」や、朝100文を借りて夕方101文にして返す「百一文」、あるいは、期限を決めておいて毎日均等割で返済していく「日済貸し」という形態があった。
これらの場合は、年360%になる極めて高利の場合もあり、そうでなくとも100%に近い金利だったと見られている。
札差の登場
そういう状況下で、支配階級である武士に関しては、有利な借入手段が用意されていた。無担保でも25%で借り入れることができたのだ。無担保だと100%近くなる庶民と比べると破格の扱いだし、担保を要する質屋ファイナンスと比較しても高くない金利水準である。
というのは、武士は年貢収納の相当分を蔵米として受領する国家公務員的な立場だったからだ。幕府の旗本は、「切米」と呼ばれた米の現物支給を年に3回受けていたため、それを前提とした貸し出しが自然発生的に商われるようになった。
当時、全国の幕府領から船で運ばれた年貢米は、浅草に建てられた米蔵に収納されることになっており、米の支給日当日になると旗本は、そこに出向いて、米の量や氏名等が記されている切米手形を提出しなければならなかった。この業務を担当している役所の入口近くには大きなわらの束があり、竹串に挟んだ手形(=札)をそこに差して順番を待つこと(これを「差し札」と呼んだ)になるのだが、役所の仕事が非効率なのはいつの時代も同様で、いつ呼ばれるかがわからない。
そこで、面倒な手続きを嫌う旗本たちに代わって、札を差し、切米を受領して、米問屋に売却し、旗本に現金を届けるという事務の一切合財を担う「札差」という金融ビジネスが出現する。
札差は、蔵米の支給日が近づくと、得意先の旗本や御家人の屋敷を回って、切米手形を預かる。そして、支給日に米蔵で米を渡されると、当日の米相場で現金化し、手数料を差し引いて、現金を各屋敷に届ける役割を果たしたわけだ。
そういうことが常態化してくると、札差は、米を入手する前に現金を融通するようになる。つまり、切米手形を預かる前にその手形をあてにして資金を貸す金融業者へと発展していく。要するに、札差たちは武士に対する無担保金融を担うようになったのだ。
そういう金融業が市民権を得た1723年になると、札差たちは、業界団体に当たる「株仲間」の公認を願い出て、札差事業の独占を認められるようになる。その際、25%であった年利を20%に引き下げることが条件となったのだが、八代将軍徳川吉宗による享保の改革が進展する中、さらに引き下げて15%にすることが一方的に決められた。
とはいえ、札差たちは、旗本に融通するために不足資金を第三者の金主から借りる場合、保証人となって「奥印」を押してやる代わりに「奥印金」を別途もらうほかに、保証する礼金を貸出額の1割程度要求していたというから、実際は40%近い水準になっていたようだ。その後、幕府公認の存在となった札差たちは栄華を極めるようになっていく。
寛政の改革によるパニック
ところが、それを快く思わない人々が出てくる。好景気に沸いた田沼時代の後、老中首座に就任した松平定信がその筆頭格だった。 定信は、札差のことを「身分の奢り言語に絶し、風俗は歌舞伎役者と二つにて、多くはくづれ申し、失礼尊大の様子、不届きの至り」(水野家文書『撰要類集』)と思っていたため、積もり積もった武士の借金を帳消しにすることを企てる。
もともと「金穀の柄は上に帰すべきもの」という信念を持っていた松平定信は、「貨幣と米穀(=経済)はお上の意に従うべきもので、金融業者や大商人が勝手に動かすべきものではない」と考えていたらしい。このため、定信による寛政の改革は、金貸し業の札差たちに対して苛烈なものとなっていった。
かくして1789年(寛政元年)、棄捐令が発布される。要するに借金棒引きの命令だ。6年以上前の古い借金については帳消しにし、比較的新しい借金に関しては6%に金利を引き下げた上で長期の年賦で返済することにする。しかも、今後については、年利を12%に引き下げるという内容であった。
この結果、あまり芳しくなかった定信の評判は、一挙に高みに舞い上がった。武士たちが狂喜乱舞したのも無理はない。借金が一夜のうちに雲散霧消したのだから当然ではある。しかし、歓喜に沸いた宴の余韻は長く続かなかった。
というのは、札差たちが一斉に貸し渋りに転じたからだ。棄捐令で棒引きになった借金は118万両(現在の価値で約1兆円)にのぼり、当時の幕府の年貢収入の規模に匹敵したといわれている。実際、堺屋金兵衛や溜屋庄助のように破綻する札差も相次いだ。
この結果、半年ほどの間、江戸の金融はパニックに陥った。どこも貸してくれなくなったからだ。このため、古い借金は棒引きしてもらったものの、資金の借り入れが自由にできなくなった旗本・御家人たちから不平不満が湧き起こってくる。
当時、定信は「借金の負担が減った上、新たな借金が困難になるというのは、同じような過ちを犯す心配がないという意味で、お上の御恩恵である」と述べたようだが、現実に日々の生活費が足らなくなった旗本たちはそうは考えない。
節約と規律ばかりを押し付ける松平定信の施政は、江戸の経済を不況に陥れ、しかも金融を滞らせてしまったため、支持を失っていく。
調べてみると、寛政の改革以前において、大きな借金を抱えた旗本は稀で、俸給の少ない武士に関しては無借金の者が多かった。また、春夏の米支給では手元不如意に陥っても、冬の米支給で借金を返済した上で、ある程度蓄えられるというのが普通だったのだ。
ところが、寛政の改革が進めば進むほど、武士の困窮化が進んでいくという皮肉な結果となった。その中で、札差によるファイナンスのニーズが高まり、定信に対する怨嗟の声が増していく。そして、松平定信は失脚することとなる。
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