海野一幸(ヴァンフォーレ山梨スポーツクラブ社長)
“奇跡のJ1昇格”を再び
一時は経営危機に陥ったJリーグ・ヴァンフォーレ甲府を
見事に再生させたのは、もとは地元紙の記者だった海野氏だ。
「ピッチ看板の鬼」と呼ばれ、現場主義、全員営業を貫き、
地域密着型スポーツクラブのモデル像ともいうべき姿を
実現させた海野氏に、その秘訣を聞いた。
構成=濱田 優 写真=鰐部春雄

オフサイドの仕組みも
わからないのに社長?
──社長に就任した2001年当時、ヴァンフォーレ甲府の経営は倒産寸前だったとか。
今だから言えるのですが、社長就任を打診されたときも、株主関係者からは「なかば整理するつもりで……」と言われたほどですから。「再建はまず無理」という声が大勢を占めていました。
就任直前の2000年は、ユニフォームスポンサーもなく、営業収入が1億8000万円に対して経費が2億4000万円。累積の赤字は4億5000万円にまで膨らんでいました。
──それでも引き受けられた。
ヴァンフォーレは大企業1社がメインスポンサーとしてついたクラブではない。県や市が税金を出してサポートしているほか、多くの地元企業が支援しています。
主要株主が申し合わせて再建計画を作ったときに、その中に山日YBSグループ(山梨日日新聞社やYBS山梨放送などで構成する地元メディアグループ)からの人員の派遣も盛り込まれていた。私は山梨日日新聞社から、関連の広告会社に出向、常務をしていて、声をかけられたわけです。辞令を受けたサラリーマンですから、受けざるを得ません。オフサイドの仕組みもよくは知らなかったんですけどね(笑)。
──就任の際に3つの目標を突きつけられたとか?
それがいわゆる“3点セット”と呼ばれたもので、「広告収入5000万円」「一試合平均入場者数3000人」「サポーター会員数5000人」――この3つを1年で達成するというのが目標というか、課せられた条件でした。
それぞれ前年(00年)の実績が2558万円、1850人、2698人でしたから、まさに倍増させろということですよね。ただ、できなければ解散ですから。
──一体どんな方法で達成されたのでしょうか。
特別なことをしたつもりはないんですよ。当然のことをしただけで。それまでが悠長過ぎただけ。ただね、私は前任の社長を責めるつもりはありません。前任者はもともと学校の先生で、プロクラブの経営ができなくても仕方ない。事務能力が高くて真面目だったからこそ、お鉢が回ってきて断れなかったに過ぎない。それでハシゴを外されちゃって。頑張ったけどやっぱりダメだった。ある意味で犠牲者でもあるんですよ。
先ほども述べましたが、ヴァンフォーレには他のJ1クラブのように、親企業がありません。Jリーグのクラブの多くは、赤字が出たら宣伝費などの名目で補てんしてもらえるのですが、うちにはそれがない。黒字化するには収益源を確保するしかありません。
クラブの収入は大きく分けて、観客動員(入場料)、スポンサー収入、テレビ放映料、グッズ収入があります。放映料はJリーグが一括管理していますから、そのほかを伸ばすしかないわけです。
──具体的には何をされた?
営業です。経費削減はもうぎりぎりまでやっていて、「これ以上、出費は減らせない」というところまで行っていましたから、とにかくお金を集めないといけませんでした。もう1人山日グループから出向した社員と、プロパーの社員との3人で、地元の企業や自治体をしらみつぶしに回りました。
当時はヴァンフォーレの認知度も低いし、相当厳しかったですよ。今でこそJリーグの「地域密着」の理念は浸透しつつありますが、当時はプロスポーツでもプロ野球のイメージが強くて、ある企業では、「大企業のスポンサーがないとプロスポーツなんてやっていけないでしょう」と言われましたからね。「(弱い)ヴァンフォーレを応援してもうちのイメージアップにつながらないからなぁ」と言われたこともありました。
そこで、スポンサーになった場合のメリットをアピールすることにして、「企業の広告費は必要経費扱いになるので、減税対象になりますよ」と口説いて回りました。
──歩いて回る、というのは記者時代に培った精神が生きているのでしょうか。
そうかもしれません。幸い、私には地元経済界にも人脈がありましたから、普通なら門前払いされるような人にもすんなり会えたんです。県庁や市役所に行っても、記者時代に知り合いになっていた職員が昇進していましたからね、話が早い。
「現場に行け」というのは今でも徹底していて、うちは毎年シーズンが始まる前に、社員に靴を2足支給するんですよ。それは「歩いて減らせ」ということなんです。まぁ、社員はみな駆けずり回ってくれているので、2足くらいはすぐにつぶれちゃうんですけどね。
──歩き回る点では同じでも、記者と営業の違いは大きいと思います。とまどいは?
確かに記者は営業や販売、広告とは相対した存在ですが。私は駆け出しがサツ(警察)回りで、途中、整理部や販売店の担当をはさんで、市役所回り、農協・県政担当、国会担当、地元財界の担当などを一通りやって、デスク、編集局長になりました。放送局で業務局長をやりましたし、広告会社にもいましたから、記事や番組制作だけで会社が成り立っているのではないことはわかっていたつもりです。頭を下げる人もいるから会社が回っているということをね。
担架にまで広告を入れて
──ホームの小瀬スポーツ公園陸上競技場には、企業の看板がたくさん並んでいます。海野社長は「ピッチ看板の鬼」と呼ばれているという話をうかがいました。
スタジアム内にある看板やユニフォームの胸と背中、袖に入れる広告料は低くしました。看板は当時150万円という“破格値”にしましたし、横断幕も掲げて広告スペースにしました。選手を運ぶ担架にも地元整形外科医院に広告を出してもらいましたからね……。00年に7社しかなかった看板も、今では100以上は出していただいています。
広告媒体については結構、知恵を絞ったんです。ユニフォームや看板に広告は出せなくても、「数万円なら出してもいい」というお店はたくさんあるので、うちわを作りました。裏に社名広告を入れて各々300本作って、観戦チケットも付けますと。6万円程度なので、それこそ小さな商店にも出していただける。もう7年作ったので、そろそろ別のことも考えないと。毎回協賛してくださるお店からは、「うちわがどんどん増えていく」と言われているので(笑)。
お金を出資してくださる企業だけではなく、選手のユニフォームを洗ってくださるところ、食材の提供、選手寮の清掃などで協力してくださるところも探しました。
──そうしてスポンサーが増えていったんですね。
一時は支援してくださる会社は15社だけでしたが、今では200社を超える会社やお店が支援してくださっています。中でもやはり印象深いのは、最初にユニフォームの胸スポンサーが「はくばく」に決まったとき。もう本当に嬉しかったです。涙が出るほどでした。
──「はくばく」は今年でスポンサー8年目ですが、02年に(スポンサーを)降りるのではないかと危ぶまれたこともあったとか。
残念なことに、工場で火災が起きたんです。被害が出るわけですから、その時は覚悟しました。
でもそこで、インターネットの掲示板に、サポーターたちが「はくばくを応援しよう」と書き込んでくれたんです。「ヴァンフォーレを応援してくれている、はくばくの商品を買おう」って。その動きがうねりとなって、はくばくの長澤重俊社長に届いたんですね。直々に連絡をいただいたんです。「サポーターにこれだけ応援していただいているのに、スポンサーを降りるわけにはいきません」と。
──サポーター、地域住民との交流が盛んなことも有名です。
サッカー教室を開催するのはもちろん、養護施設の慰問や地域の祭りに参加したり、保育園の運動会にも行ったり。選手が参加するイベントの数は結構あると思いますが、それは当然のことなんです。親企業一社が支えているクラブではなく、地域に支えてもらっているクラブなんですから。
経営が厳しかったころは、地元住民の間で話題にもならなかった試合結果や選手の入退団情報が、今では話題の中心になっている。それが嬉しくてたまりません。
──しかも経営再建に着手して数年でJ1に上がりました。
予想より早く行くことができたのは事実です。1999年のJ2参加から3年連続で最下位だったチームですからね……。普通は「J2の中位で力をためてから、チーム作りをしてJ1へ上がる」と考えるのが順当でしょうからね。
残念ながらJ1では2シーズンしか戦えませんでしたが、J1で戦ったことは、必ず糧になるはずですし、選手もサポーターも、もちろんフロントも、「再昇格」という新たな目標ができただけです。今シーズンが始まる直前、サポーターや支援者を招いてキックオフパーティーを開いたのですが、約1200人が集まりました。皆同じ目標に向かって団結しています・・・



